積小為大2
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日本資本主義の父と言われている。 5歳の時から父に読み書きを教わり、7歳の時にはすでに四書五経を学ぶ勉学に優れた少年だった。その後、京都に出て一橋慶喜公に仕え、パリ万国博覧会に随員として訪問する。フランスのみならず、ヨーロッパ各国を視察。帰国後大蔵省に入省。予算編成で大久保利通と対立し民間人となる。その後、日本銀行の創立や、実業家として東京海上火災保険・王子製紙・東京ガス・キリンビールなど生涯に500近くの民間会社の設立に係わる。 教育面においても早稲田大学・慶応大学・日本大学・一橋大学など多くの学校設立において主に資金面で協力した。 渋沢の生涯を貫いていたのは、論語の精神と経済活動である。 「商業において絶対に忘れてはならないことは公益と私益のあり方についてである。ややもすれば世界では商業は私益のためという解釈が一般的とされているようだが、これは間違いである。商業における公益と私益は一つである。公益はすなわち私益。私益はすなわち公益。私益よく公益を生ず。公益となるほどの私益でなければ真の利益とは言えない。これが『論語とソロバン』の云わんとするところである」 渋沢は明治という近代国家建設の時代に合って、道徳と経済の調和が大切であると論じ、二宮金次郎の思想を後世の経済・産業人に広く伝えた一人である。 静岡県浜名郡生まれ。小学校卒業と同時に父の大工仕事を手伝う。この経験から身に付けた技術が後の発明王のバックボーンとなる。 父伊吉は静岡県の報徳運動の中心人物の影響を受け、地元に報徳社を創立したほど熱心な信奉者であった。 豊田は発明で身を立てようと考えていたが、母の布を織る姿を見て 「なんとか負担を軽くしてあげたい」と織機の開発に取り組み「豊田式木製人力織機」を完成させ、翌年には特許も取った。その後も飽く無き研究開発に努め、生涯を通じ119件の特許を得た。豊田は策略や駆け引きを嫌い、ただ真面目に情熱と誠を持って所信を貫き、至誠と実行の精神で人々と接したので内外の多くの人々が彼に信頼を寄せた。 ⑦受け継がれる金次郎の思想 ―金次郎を師と仰いだ経済人― 1. 渋沢栄一(1840〜1931) 2. 豊田佐吉(1867〜1930) 11

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